昭和52年05月12日 朝の御理解



 御理解 第88節
 『昔から、親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは、顔をきれいにするばかりではない。心につらい悲しいと思う時、鏡を立て、悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよということである。』
 
 悪い顔みせぬ目ににこやかに、にこにことしながら家を治めよ。鏡というのは教えの鏡である、ここにこれはおかげである、神愛であると感じながら・・・・すべてを、お広前中に聞えるような大きな声で私頂いた、その日突然、いわば、どうゆうことが起こっても、ある人はその日突然起きた事柄を信心に一段進めていく、ある人はその日突然起きて来た事柄を信心・・・いつどんな時であってもそれを神様の御働きそのものとして頂けるだけの信心を、あれはね。
 おかげを頂いて徳を受けてゆくという、後からだんだん考えよったら、おかげというとこが分かりましたじゃいかん、それでもおかげは頂くことは頂く時間的には、それこそ一本勝負「おかげ」とこう頂ける御信心、どういうことが突然起こってまいりましても、さあどうするかと云うたら、もうこれは徳の世界に繋がる、だからどういうような場合であっても、それが真に神愛ということが頂けれる信心を信じ、本当に88節を頂きます時にも家を治めると言う事。
 「治める」という字は、サンズイ偏に「ムくち」と書いてある、サンズイ偏というのは「水自然」いうなら自然である、突然どう言う事が起って来ても「ムくち」へ小谷先生はこんな素晴らしいわかり方はないです、神様の働きを信じているから黙っておられる、腹がたつのをグイグイ堪えとったと言う事は全く無い。治まると言う事は自分の心が治まると言う事、ですから次の治めると言う事に繋がってくるだから治まる。
 88節は広がりに広がってゆく、この頂き方をする限り、お徳にお徳の花が、お徳の実が実るという、非常にこれは心においてされるおじいさんなんかに下さった御理解でしょうね、そんなに信心が分かっているとは思えないけれども、鏡を持たせるのは決して朝顔をきれいにするだけじゃないぞと、 辛い苦しい時があったら鏡を見て自分の、いうならば、心の状態をたびたび見て・家の中を治めていく際には、どうでもそういう生きかたにならなければ。
 人は皆んな自分をどう言うか風であっても自分を見ていけという、けれども合楽風に云いますといよいよ徳を受けるいよいよ力を受けて行けれる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・黙って堪(こら)えて治めるのでなくて神様の働は神様の働きとして・・・これではね後で考えて見るとおかげだっただけではね、おかげには繋がってもお徳には繋がらない。問題は広がりにひろがって88のおかげになっていかなければ、それにはねやっぱり日頃の信心が大切になってくる。
 昨日どうしても彼女と逢う約束をしていた、時間に行った所がいくら待っても来ないそこでお取次ぎを頂いておったけれども、今日は甘木に帰ると言う事じゃなと思って電話をせずに帰って来た。そしても神様から、私はあの白い緒の下駄を真っ白い下駄と黒がちょこっと入っている、御霊様ごとの時にはく革の白ですけれども、少し黒いのが入っているその下駄を頂くんです、たった其れだけの事だけれども。
 私は「それが精進ぞ」と言う事です。私共日々精進の心がなかったら今日私が言う様な御理解がわかっても要領に現すことは出来ない、日頃そう言う様な精進が必要です。「甘い物が好きなのにどうして甘いもの買ってこない、俺は帰って来てから一杯飲むとが楽しみじゃけんなのに用意もせん」と それだったらもう精進する心はない・「・・・今日は飲むなということだ・」とそういう心が精進する心です。
 私は申しました「今日は良か修行が出来たね」というてました、・・・今の何頂きましたら、本当のそれがもやもやするのではなくて、それどころじゃない返ってそれが有難いと言う様な御理解、信心はそういう心掛けでなければならない、お願いして一遍にたまって思うごとなる・・・・・お取次ぎを頂いていったからこそそうだ、だから「今日は、いうならば逢うな」と言う事だろうと向こうに電話もかけずに帰って参りました、そしたら神様が「それが精進の心ぞ」と仰った。
 この信心以外の結果を精進する心がなからなければ、おかげにならんその日起きてくる事を本当に徳にしてゆく力喜びで受けていく力、「それをお願いしとったのにこうだ」、そこで腹を立てて・・それを問題を問題にするかどうかはと言う事ではおかげにするか・・・突然のことで愈々信心をいわば、88弥が上にも広げてゆく・・・こその日突然のことで、いうならばいつも信心が堂々めぐり、それをいかに信心が低下しているかと言った様な、結局その人の精進如何だと思う。
 大きな願いを求めている、例えば・・・・・牝馬にまたがって蹴散らかせていけというような勢いがいい、まさにその通りでおかげ頂く、大きな願いをもっていく、今日の・・・・だからたとえどういうことが突然起ってきてもそれをおかげと受けていく・・・・・から手紙が・・なかなか手紙に・・・・・同封してあるこんな板を・・・「汝真理を語り人心を読め霊らんの世界に光明を与う、恐るるに足らず万国に金光教を広め合楽理念を示現せん万感むねに迫る感激の涙」なかなか頭がひろくて・・・・。
 本当に自分が清まるだけじゃない、自分がきよまってた助かる、助かる道はこれだけしかないんだというような願いが心に広がってくる、本当に自分の周囲を真っ黒い闇の世から光の世へせずにはおかん心の状態、そこにはもう、それこそ牝馬にまたがって蹴散らしていけという勢いが出てくる恐るるに足らん。万事の・・・、それこそ南米全土に万国にお道の信心を広めて合楽理念を示現する、合楽理念を万感胸に迫る感じ、信心は感激感動がなからないといけない、それにはね大きな願いを立てないといけない。
 そこにはね問題が一つも問題にならないと同時に些細な事柄の中味であってもそれをおかげと頂かせてもらう、「今日は食べちゃならん今日は飲んじゃいけん」と神様が云っとられるという受け止め方それが精進の心、そういう信心が繰り返えされて、初めてほんとうに黙って治めることの素晴らしさが分かってくる。昨日徹美君が今度学院に参りますのに「ぼくが学院に参りましてから心に頂かなければならない事を書いて下さい」と色紙を持ってきました。
 神様にお願いして果たしてどういう風に私は申しましたけれども、「徹美さん今のあんたなら何も云うことはない今のこの気持ちを持って忘れずに学院にいったら素晴らしい、師匠として今のあんたには云う事がない、」けれども書かせて頂くならばというて兎に角お願いさして頂いとりましたら『修身』と言う事を、修身の教科書小学校にありましたがね、「身を修める。」
 例えていうならば私が64歳にならして頂いて64歳になってようやくこれぐらいに、だから私の若い頃からのことをずーと思うてみると例えばあんた、ほんなら豊か・・・・・・・・自分も得意になっている、そうすると若い時に三味線の稽古をした祭りをした、それこそ自信を持って謡いよった、それがね何時の間にか三味線を握らんで済む様になり歌を歌わんで済む様になりと言う事は。
 お道の教師を志て頂いたら、私達の理想というのは「私の理想は三代金光大神様、少しでも真似方でもさして頂こう、」と云ういつも心にあると言う事が身を治めていく事になる、だから今あんたに歌を歌うなとかどうと言う事ではない、むしろ今のまま今の状態が続くなら言う事はないんだけれども、それが段々いわば歌を思わんけれども、矢張り金光様の先生なら金光様の先生らしゅう踏んまえる、いわば態度というか心の内容というものが金光様の先生。
 いうなら教師のなかの教師として御とり立てを頂きたいと日頃願っているのだから、そこん処をいつも心に懸けさして頂くと言う事が要る。だからいつも精進する心というものがなからなければならない「修身」と言う一生が修行中と言う事をどういう風に具体的に心掛けていくかと言う事、確かに自分の好みも変わってくる、もう本当にそうです。心の状態がかわってくるともう絶対好みが変わってくる、いうならどういうに変わって来るかというと、いうならば。
 金光様好みになっていく神様好みになってくるです、そういう私は精進がなさらなければならない。今日88節愈々自分の信心を自分の親戚にも、いうなら万国にもそれを広げていって和賀心時代をいよいよ世界中にも広めたいという大きな願いを持って、先ず自分の心から自分の家庭から周辺から迷暗の世界に光明を、いうならば高度な信心目標に向かって大きな願いであれば小さい事はもう問題が問題でなくなってくる、どんなに黒い問題でも大きな光の前には消えてしまう様なもの。
 と言う事は目先の信心、矢張り「この事をたのみこの事を願う」と言った様なおかげが目当てではなくて、どうでも一つ信心を目当てにして参りますと今日の88節はそういう文章が広がるおかげの頂けれる内容として頂ける、これは若い御理解御教え日々違った御理解でしょうけれども内容にそういういわば、黙って治めると言う事はこういう素晴らしい働きを見ただけでこつこつ出来れる内容のあった・・・・・・・録音消失